夕張よ 盛衰の軌跡

〈1〉炭鉱から観光へ
〈2〉前市長の夢
〈3〉“2億円”寄贈話
〈4〉レースイ買収
〈5〉冷ややかな視線
〈6〉たくましさ


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〈1〉 炭鉱から観光へ 「積極路線」が病巣に
2006/08/29 (火)朝刊

夕張よ 約六百三十億円もの巨額負債を抱え、財政再建団体入りを決めた夕張市は、かつて炭鉱、次いで観光開発の成功例として脚光を浴びた。転落を招いた原因は何か。盛衰の軌跡を振り返る。(6回連載しました)


 ゆうばり石炭の歴史村の一角にある映画「北の零年」のロケセットを二十三日、沖縄県議九人が同県で始まる映画祭の準備のため視察に訪れた。「映画の施設は年齢を問わず、だれでも楽しめるね」。県議の言葉に、案内役の歴史村学芸員青木隆夫さん(55)は、開業時に全国から相次いだ視察を思い起こしていた。

 歴史村の構想は一九七七年、後に市長となる助役の中田鉄治氏(故人)から生まれた。閉山が相次ぐ中、「炭鉱から観光へ」「だれでも入坑できる模擬坑は観光資源になる」と中田氏は力説した。「歴史村」は八三年、遊園地なども含めて全村オープン。予算総額は夕張の一般会計の半分にあたる五十五億円。華やかな施設整備に、夕張と中田氏は「まちおこし」の象徴となった。

独特の哲学

「炭鉱から観光へ」の象徴だった石炭の歴史村。財政破たんで存続が危ぶまれている=7月下旬、本社ヘリから
 「うらやましいが、うちの町では無理だと思った」。当時、視察した九州のある首長は語る。中田氏は「自治体は倒産しない。借金には国の保証がある」などと周囲に語った。国の閉山対策資金があった上、こうした独特の金銭哲学が大胆な事業遂行の決め手だった。

 ただ、過度の積極経営路線は、次第に市財政をむしばむ病巣となっていく。歴史村が八四年に手を出した熱供給事業は、その象徴的な例だ。

 北炭のボイラーを再利用、炭鉱住宅(炭住)を解体した廃材や微粉炭を燃やして蒸気をつくり、公共施設やホテルに供給した。通産省(当時)の省エネ・地域振興対策事業として、総工費六億五千万円のうち二億五千万円の補助金が出た。

 ゆくゆくは安価な熱供給を企業誘致の決め手にしようとした遠大な構想だったが、当時の担当者は「旧式のボイラーで当初から火のつきが悪く、重油をかけて燃やしていた」と明かす。非効率な事業は二○○二年、ひっそりと幕を閉じた。熱供給先のボイラー付け替え費用など四億円強は、いまも市が債務負担行為として払い続けている。

去った栄光

 「炭鉱のおかげで電気代もただ。夕張には東京にあるものがすべてあった」と、元助役で石炭の歴史村観光副社長の吉田米次郎さん(70)は振り返る。プロ野球の金田正一、川上哲治、大相撲の吉葉山、栃錦−。公式戦や地方巡業で、スターが次々やってきた。

 炭都・夕張は最盛期に二十四の炭鉱を抱え、六○年の人口は約十一万人。炭鉱を経営する大企業が生活面などすべての面倒を見て、「体一つで行けば、その日から稼げる」場所だった。

 石炭を見限り、石油依存を強める国のエネルギー政策の転換で、栄光は去った。北炭は解雇した従業員が住んでいた炭住や上水道、炭鉱病院(現市立病院)まで放り出して撤退。夕張市は七九−九四年度、閉山の後処理に五百八十三億円の巨費を投じた。三百三十二億円が地方債として市民の肩にのしかかった。

 市内の建設会社社長は「北炭は夕張の石炭のもうけをよそで使った。炭鉱閉山後もいろんな人が来ては、金を得ると消えていった」と振り返る。

 道内経済の特徴といわれる「植民地」性が夕張では顕著だった。学芸員の青木さんは思う。「夕張は石炭発見の明治の昔から、一旗揚げたい人の歴史だった」と−。(横井正浩)